[9日目] ルーツ旅から見る中国厦門(アモイ)今昔物語


Cerevoの林(りん)です。営業とSIM CHAGER⊿のプロダクトマネージャーやっています。

TechBlogですが、文系出身の私は何か技術的な事を話せるわけではないのでCerevoメンバーはほとんど行くだろう中国の話をしたいと思います。
といっても既に中国の工場のなどの話は以前にされた方がいるので、ここでは私が最近中国に行ったときのこと、また35年前に父が行ったときのこと、それぞれが経験したルーツを辿る旅の話をしたいと思います。

まず私自身のお話をしますと父は台湾人、母は日本人のハーフです。
そして父方の8代前の先祖は、台湾に来る前に中国に住んでいました。現在の厦門(アモイ)市の同安区瑶頭村の西河という所です。父は祖父から、私は父からこの話を聞き、時間軸は違えどそれぞれがこの先祖がいた地を目指し中国へ行くことを決めました。

そもそも厦門ってどこ?

廈門という街の位置は地図を確認してください。


ちょっと南に台湾政府が占領している金門島があり、その先には台湾があります。

実は過去多くの人が私の先祖と同じようにこの辺りから台湾に渡っています。また東南アジア各地にいる中華系の住民もこの厦門あたりから移住した人が多いと言われています。

厦門への道のり

現在は日本から廈門へは成田から直行便が出ています。私が廈門へ訪問する際にはこの直行便を使いました。

父が訪問した35年前は直行便なんて便利なものはなく一度、北京に行きそこから鉄道移動でした。そもそも当時は中国が改革開放前で個人旅行なんてもってのほか。ツアーに参加するしかなく、行くところには全てガイドがついてきて許可がない場所には自由にいけない時代でした。
ただ、華僑(海外在住の中国人)だけは旅行禁止地域を除いて自由な往来が許されていました。
父は台湾人という事で華僑扱いだった為、ツアーに参加をし途中の空いている日程で廈門へ訪問しました。
福州という街まで鉄道で行きそこからバスで移動する過酷な道のりだったそうですが、現在は福州からでも高速鉄道ができており、大分陸路での移動も楽になっています。

通貨の今昔

中国の通貨ば人民弊、人民元、RMBと呼ばれています。

ただ父が中国へ行ったときは兌換元という通貨にしか両替ができず、一般の中国人が使用する人民幣とは異なっていました。この兌換元は外貨に両替でき、人民弊で買えない商品が買えたそうです。そのため父が銀行に人民弊の両替を依頼した際に奥の方からお偉いさんが出てきて、お偉いさんのポケットマネーの人民弊と父の兌換元の交換を求められたとのことです。

厦門の見所

せっかくなので厦門の見どころを紹介いたします。

鼓浪嶼(コロンス島)

市内地には旧疎開地である鼓浪嶼という島があります。
かつてアヘン戦争後の南京条約で廈門が列強に開港された際アメリカイギリス日本ドイツフランスなど、列強諸国の共同租界がこの島に造られました。今でも島内のあちこちには、赤レンガ造りの洋館が建ち並ぶ区画が残されてて、中国の一画にいるとは思えないような、往時の面影を色濃く留めたエキゾチックな空間が島全体に広がっています。

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廈門の中でも最もポピュラーな観光地であり、中国内外の観光客でいつもごった返していますが、それでも通りを一本入ると、とても落ち着いた雰囲気の閑静な住宅街がそこに広がっています。車の乗り入れが規制されている分、自動車がもたらす喧騒から開放されるので、本島に比べると落ち着いた感じで観光を楽しめます。廈門を旅行先に選んだのなら、ぜひ一度は訪れて頂きたいスポットです。
行き方は市内を走る高架バスBRTで第一碼頭駅からフェリーで5分です。

福建土楼

土楼とは長方形や円形の厚い壁で囲まれた集合住宅に福建省の南西部の山岳部に地域に集中していて、2008年にはユネスコの世界遺産にも登録されています。

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大きいものは衛星写真にもうつる程で、一時期アメリカがこの写真を見てミサイルのサイロと勘違いして大規模なミサイル基地ではないかと疑問を抱いたそうです。
私は食事付きで100元程のツアーに参加して、田螺坑土楼群と裕昌楼へ行きました。
このツアーは湖浜長途汽車站というバスターミナルに行けば申し込めます。ホテルに迎えにくるツアーもあるようですが値段も倍近く違うので節約派はこちらをおすすめします。

大体土楼がある所まで片道3時間ほどかかるのでほぼ1日がかりのツアーになります。

祖先の地の今昔

父の時代は中国内で自由に旅行をする事を許されない時代でした。そのため先祖の地を訪ねるのにも事前に現地の旅行会社に対して、父が持っていた家系図のメモを確認してもらいガイド付き添いでやっと目的地にたどり着くことができました。その時に父が撮った記念写真がこちらです。

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父は現地で右側に「西」、左側に「河」と書いてある柱の建物を見てここが祖先の地であることを確認しました。

私が同じ訪問する際に手がかりだったのが同安区瑶頭村という場所、そしてこの写真のみでした。父が訪問した時に案内して頂いた方は当時で40〜50代前後ぐらいと思われる風貌だったので、その時の事を覚えている人がご健在なのかもわからない状況だったのです。

とにかく動かない事には何も進まないので同安方面のBRTという高架バスに乗り、さらにバスを乗り継ぎしばらくして車窓から「瑶頭」の標識が見えたので下車しました。どうやら村の中心までまだ距離がありそうだったため、バイクタクシーを捕まえ3~4キロ走った先にあった村の広場で降りました。

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村について第一村人を発見し、すぐ昔の写真を見せながら父が当時に出会った人の名を出しつつ聞きこみをしました。すると「その人なら同安の中心に引っ越したよ」との答えが。いきなり出鼻を挫かれてしまいました。
どうしようかと途方にくれていると、近くの同じ苗字の遠い親戚かもしれない「林」さんの家に声をかけてくれるというではありませんか。

ありがたくついていき、その家の人に事情を話すと家にあげていただきました。
居間に上がるとその家のおばあちゃんが登場し、改めてここに来た目的を話すと 「もう少ししたら一緒に写真にうつってる人らしき人の家を何軒か案内するから、まずは少し休んでいってちょうだい」とあたたかい言葉をかけられました。さらに初対面にもかかわらず食事までごちそうになりました。

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頂いた食事が牡蠣がたっぷり入った米粉でつくられた麺で、台湾の田舎の食事に非常に似ていてびっくりしたのを覚えています。

食事をいただいたあと、一段落した所でおばあちゃんに連れられご近所を案内していただき、幾つかの路地を抜けると、まさに父が写真を撮った場所である、うちの先祖の旧家を発見しました。ここで改めて先祖の地にたどり着けたことを実感しました。

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その後、案内してくれた方が父が以前会ったガイドさんの家にも連れていってくれました。父が撮った写真を見せ、ここまでの道のりを話すと興味深そうにし、記念撮影をして同安の地を後にしました。

最後に

時代の差はあっても父も私も祖先の地を踏むことができ、遠い親戚と思われる同安の林(りん)さん方には会え、とても満足した旅になりました。

帰国後、私はいつも通りの生活に戻りました。しかし当時の父は台湾政府に内緒で中国へ行ったことがバレてしまい、台湾政府のブラックリストにのってしまいました。
今でこそ台湾人も自由に中国へ渡航できる時代になりましたが、当時はいくら祖先の地とはいえ敵国に渡航するとは許されなかったのです。その結果、父は台湾が民主化するまで約10年間台湾に帰国する事ができませんでした。
それを考えると、いまは行きたいと思ったときにすぐに行けるありがたい環境であると思えます。

みなさんは自分の祖先がどこから来ているかはご存知ですか?
もし調べてみると新たな発見があるかもしれません。

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